沈黙(遠藤周作)
マーティン・スコセッシの「沈黙」のレンタルが始まっているようなので、映画を見る前に再読。
この時代は、多くの人(特に農民)は満足に食べることもできず、病気になっても薬はなく、厳しい年貢の取り立てに追い立てられる、という、生きてること自体が苦行の時代です。そのような苦しい中で、キリスト教は「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」という、
苦しむことが逆に快楽
という、価値観がひっくり返った考え方により、この苦しい時代の人たちの苦しみを救っていた(ごまかしていた)訳です。
でも日本を統治する立場からしたら、(無知な)農民がよくわからない考えに洗脳されてコントロールが難しくなりそうだし、キリスト教を広められて占領されるかもしれないし、日本人は奴隷として連れていかれるし、などなどで禁教扱いにしてしまいました。まあ、わからなくはないけど。
禁教になり弾圧されるようになると、「なんのために、こげん苦しみばデウスさまはおらになさっとやろか」というキチジローの言葉が表すように、
苦しみの価値を逆転してくれるキリスト教を信じる → 禁教になり弾圧される → 踏み絵とか拷問とかでさらに苦しい状況に追い込まれる
というさらなる苦しみスパイラル状況に追い込まれていきます。
このお話では主人公は「神の試練だ!」と「試練が厳しすぎるよ!」という間で、さらに信心を試される訳ですが、読んでいてとにかく興味が湧くのは、
・神は何も言わないのに、
・神の国にいけるかどうかは各自の信心次第
という「無茶ルール」を、どうして人間の脳は採用してしまうのか、ということなのです。
あと、ラテン語圏と日本語圏で(中国語圏でもいいけど)、同じ何かを信じるのは、思考ルール(言語ルール)が異なるためムリでしょうね。